インターネット上では、日々数えないほどの著作物が生まれ、流通している。その中で我々は、著作権を侵害したと後ろ指さされることなく創作活動を続けることができるのだろうか。
著作権者に無断で他人の著作物を複製することが著作権法により禁止されていることは、今日では、よく知られています。
著作権法2条1項15号によれば、「複製」とは、「印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製すること」をいいます。そして、判例通説は、既存の著作物と全く同一のものや実質的に同一のものを作り上げたというだけでは著作物を「再製」したとはいえない、既存の著作物に「依拠」して作り上げたことが必要なのだとしています。なぜなら、著作権は他の知的財産権とは異なり登記・登録を要せずに発生しますので、「偶然の一致」でも著作権侵害だということになると、怖くて何も外に発表できなくなってしまうからです。それに、「再製」するという以上、複製の対象となる特定の著作物が頭の中にあって、それを形にするわけですから、「自分はこの著作物を形にしているのだ」という意識が複製者にあることは不可欠です。
とはいえ、既存の著作物と実質的に同一性がある作品がそこにあったとして、それが既存の著作物を依拠して作成されたのかということは、通常、本人にしかわかりません。そして、本人は正直に告白するとは限りません。
もちろん、そのときのその人の頭の中身を立証しなければ裁判で負けてしまうというのはこの問題に限らず結構あります。そういう場合、普通は、特定の頭の中身と強い繋がりがある客観的事実をいくつも並べて、「これだけの客観的な事実が揃っているのだから、あのときあなたはこう考えていたのでしょう」というふうに突きつけるわけだしそこで、説得力があれば、裁判所も、そのときのその人の頭の中身を認定してくれます。「依拠」にしたって、「間違いまで全部同じ」等の客観的な事実を突きつければ、本人が否定したって、「依拠」があったと認定してもらえます。
でも、法律家って著作権者にはとても優しいので、さらに「俺の著作物があいつに勝手に複製された」と主張する側の立証責任を軽減してやろうと考える人々が現れます。そうして現れたのが、「その著作物にアクセスし、又はアクセスする可能性があった場合には、「依拠」があったと事実上推定してしまおうという理論です。つまり、「俺の著作物があいつに勝手に複製された」と主張する側で、「あいつには俺の著作物にアクセスする可能性があった」ということが証明できたら、「俺はあいつの著作物を複製したわけじゃない」と主張する側で依拠がなかったことを証明しない限り、依拠があったことにしてしまおうというのです。
でも、これって、よくよく考えてみると、無茶苦茶な理論です。
例えば、音楽に関していえば、メジャーレーベルなりインディーズレーベルなどで収録され、発売された音楽に関していえば、全ての国民に「アクセス」する可能性があったといえます。だからといって、「お前は、あのとき俺の歌を知っていたはずだ。」といわれても困ってしまいます。
我々は、アクセスする可能性のある著作物全てにアクセスしているわけではなく、むしろ、アクセスする可能性のある著作物のうちのほんのごく一部にしかアクセスしていません。それにもかかわらず、「その著作物にアクセスする可能性があった」という事実から「その著作物にアクセスしていた」という事実を推定してしまうというのは無茶がありすぎです。一般に、「甲」という事実から「乙」という事実を事実上推定するためには、「甲」という事実がある場合にはかなりの確率で「乙」という事実もあることが経験則上言えなければいけませんが、「その著作物にアクセスする可能性があった」からといってかなりの確率で「その著作物にアクセスしていた」とは明らかに言えないからです。
それに、「確かにアクセスする可能性はあったかもしれないが、実際にはアクセスしていなかった」ことを立証するのは実際には困難です。実際にレコード屋に行けば普通においてあり、また、テレビやラジオや有線放送で何度も放送されている音楽を「知らなかった」ということをどうやって証明できるというのでしょうか。
これでは、「依拠」を「複製」の要件とした趣旨が台無しです。
そして、インターネットが普及して、私たちが簡単に自分の作品を公開できるようになった今、このことは人ごとではなくなってきています。
それほど語彙が豊富ではない夥しい数の市民によって毎日夥しい量のテキストがインターネット上にアップロードされています。したがって、私たちが作成した文章の一部が偶然、インターネット上にアップロードされている既存の作品の一部と全く同一であったり実質的に同一である可能性は、常に排除できません。
そして、偶然に、私たちが作成した文章の一部が、インターネット上にアップロードされている既存の作品の一部と全く同一であったり実質的に同一であったことが発覚したときは大変です。インターネットにアクセスできる全ての人は、インターネット上にアップロードされているどのテキストについても、アクセスした可能性があるからです。すると、私たちは、インターネット上にアップロードされているそのテキストには一度もアクセスしていないということを証明できなければ、複製権侵害の謗りを甘んじて受け、せっかくの作品の廃棄や損害賠償に応じなければならなくなります。この証明は、まさに「悪魔の証明」です。
このように、「アクセス可能性」から依拠を推認してしまう考え方は、理論的にも実際的にも無茶苦茶です。なのに、なぜ賛同者が多いのか、とても不思議です。
|